何色から食べる?

J帝国に身を捧げた関西人のはなし。

ジャニヲタ13年目にしてはじめてブログを書いてみた

初めまして。

ジャニヲタ歴約13年の関西人です。

 

ふと、増えていくコンサートの半券を眺め、「きちんと記録しておけばよかったな~」と思ったことをキッカケにブログを書いてみることにしました。

こういう話し言葉で書くのが苦手な文学部卒ですが、なんとか書く練習をしなければと思っている次第です。(堅い)

 

さて、自己紹介がてら、自分のジャニヲタ人生を振り返ってみます。

 

 

1.原点 スマスマを見てキャッキャしていた幼稚園~小学生

私のジャニヲタ原点は何を隠そうSMAPだ。

誰もが認める国民のアイドル。そしてその冠番組スマスマに私は育てられた。

そして人生で1番好きな作品に出会う。

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香取慎吾くん主演ドラマ「人にやさしく

もうね、大好き。ちょー好き。何十回見ても好き。毎話泣ける、ガチで。

太郎ちゃんクールぶってるけど、1番現実人間だし、ほんとはちょー優しい。

拳ちゃんは馬鹿だけどいつも全力で、憎めなくて。

前は言わずもがな優しくて、あったかくて、いい加減だけど人として大事なことをたくさん教えてくれる。

私の人生の指針になっていると言っても過言ではない!!!

(ほんとに悩み事が多くなってしんどくなったときはこのドラマを一気見する。必ず泣けるからスッキリする。)

 

好きすぎて「3ピースして」うちわも作成し、いつの日かSMAPのコンサートに参戦した時に慎吾に応えてもらうのが夢だった。夢で終わってしまったけど。。。

片手で応えられるお手軽なファンサなのか、エイトの丸ちゃんと、ジャニーズWESTの流星、照史に応えてもらったことがあるが、まぁ、この話はどうでもいい。

「人にやさしく」というドラマがいかに素晴らしいか伝えたいのだ!!←それも違う

 

なにが言いたかったのかというと、根っからのテレビっ子だった私は、スマスマをきっかけにジャニーズの沼にハマってゆき、KinKi Kidsの光一くんにキャーキャー言ってみたり、学校に行こうで剛くんを好きになってみたり、TOKIOの松岡くんのドラマ(天国に一番近い男も名作だし、主題歌のメッセージが大好き)を見てハマったり、とにかく小学校でよく流行ったプロフィール帳の「好きな芸能人は?」の欄には必ずジャニーズのタレント名を書いているようなどこにでもいる女の子だった。

 

 

2.意識 「隼人派」だった小学校5年生

そんなこんなで、ジャニーズ=TVに出ている格好良いお兄さんだった自分に転機が訪れた。

 

「ムニちゃんってジャニヲタだよね。」

※無論このときはムニというあだ名は誕生してないので本名で言われたわけだが

 

小学校5年生の時、初めて同級生の女の子に言われた。衝撃的だった。たしかにレンタルショップで初めて借りたCDはSMAPだし、TOKIOも、KinKiも、V6もCDアルバムを網羅してはそれを車に連れ込んで、たった10分のお買い物コースでさえも1人コンサート状態だった。それでも、同級生に言われるまで自分がジャニーズヲタクだなんて意識したこともなかったし、「ジャニヲタ」なんて単語さえ知らなかった。

 

そして初めて気づく。

 

「あぁ、私ってジャニヲタなんだ。」

 

気づいてしまったらもう止まらない。

そして見つけてしまったのだ。人生初の「担当」を。

2004~2005年のカウントダウンコンサート。友達に教えてもらって初めてTVで見たカウントダウン、1組だけ知らないグループが知らない曲を歌ってた。

その人たちは、他の先輩たちとは違って爽やかの欠片もない、いかつい兄チャンだった。知らないのも同然。彼らは、出演者の中で唯一デビューしていないJr.のグループだったのだ。

知らないいかつい兄チャンの1人が、知らない曲を歌いながらバック転を決め、カメラに向かって超絶エロ格好良い顔を決め込んだ。その瞬間、

 

惚れた。

 

画面が止まったかと思った。全てがスローモーションに見えた。ビデオを何回も見直して、見つけたと思った。初めてこの人を「応援したい」と思った。

それが紛れもないジャニヲタ人生初の担当、赤西仁だった。

彼はとてつもなく、嘘のように美しかった。他の誰にもない、彼にしか持ってない色気があった。幼いながら、彼のエロさと可愛さのギャップに殺られ、見事に堕ちた。

 

そんな彼が、デビュー早々アメリカへ旅立ち、残された5人は「僕らの街で」という新曲を発表した。

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受け入れられなかった。

 

留学とはいえ、5人で曲を出した「KAT-TUN」が、Aのいないポッカリと穴の空いたそのグループは、私には受け入れられず全く魅力も感じられなかった。

彼らに仲良しこよしを求めていた訳ではなかった。でも、個性がぶつかり合う中で6人が笑顔でバカなことをしているのを見るのが好きだった。大好きだった。

しかし、Aが戻って完全体となったはずなのに、どこかぎこちなさと不確実さを帯びた彼らの活動を応援し続けることが自分には困難になっていた。

 

 

3.花畑 eighterでいることが何よりの誇りだと感じていた中学校

KAT-TUNを応援し続けることに疑問を抱きはじめたとき、お互い見事にジャニヲタへと成長した幼稚園の頃の友達と再会した。彼女はeighterで、丸山担だった。

「ドリボのDVD持ってるから貸すよー!ついでにエイトのコンサートDVDも見てね♫」と、彼女はドリボと、3枚のコンサートDVDを貸してくれた。

 

そこで、金髪で背の小さい安田章大に惚れた。

元々安は、亮ちゃんと一緒にMyojoのドリボ対談企画で仁の対談相手だったから知っていた。舞台中、安が貸した化粧道具を使いっぱなしで片付けない仁を、「マイペース」という単語で片付けてしまう彼と、メンバーと食事に行くといつも通路側に座って、注文をしたり、きた料理を配膳したりできるようにしているというエピソードが好きだった。

 

晴れて安田担となった私は、この幼馴染に連れられ、初めてコンサートへ足を運んだ。2007年6月10日神戸国際会館で行われた、47都道府県ツアー神戸公演だった。(初めてのコンサート記念日とはいえ今でも日付を覚えているのは我ながら気持ち悪い)

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当選したのは1階8列センターというかなり見やすい席で、友達と2人で興奮した。安の地元である兵庫公演に入れて本当に幸せだった。初めてうちわを作ってみたりもした。

テレビの中のジャニーズのお兄ちゃんが実在する。実際に他歌って、踊って、コントをして、ファンの自分たちに手を振っている。なんてこったぁ!!!!!!!!!

 

どんどんどんどんどんどんどんどんハマっていった。どっぷりたっぷり浸かっていた。

ジャニーズという大沼に。

 

このコンサートをキッカケに、関ジュ魂、NEWS魂、内博貴と愉快な仲間たちシリーズ(懐かしい)、関西絡みのコンサートに足繁く通うようになっていた。

 

 

4.苦悩 eighterの称号を捨てた高校生~そしてJr.担へ~

2010年、47魂から3年が経った頃、気づけば何故かエイトより関ジュの現場の方が多くなっていた。単純に現場数が多かったというのもあるが、実は、幼馴染から借りたDVDの1つで見つけたあるJr.が気になって仕方なくなっていたのだ。

 

時を幼馴染からDVDを借りた、2007年に戻そう。

彼は、よだれかけにも見える衣装を着て、でもすごくカッコつけて、

「口と口を付けるって~そんなのありえないよ、Oh,No~~!!」と歌っていた。

 

なんだそれ、クソダサいな

 

赤西を見つけた時とはもちろん違う衝撃だった。でも、赤西を見つけた時と同じように「見つけた」と思ってしまった。思ったんだよこれが。なにせクソダサい衣装で、クソダサい曲を歌ってたとしても、顔だけはドンピシャでタイプだったのだ。

すぐに雑誌を部屋から引っ張り出し、彼の顔を探した。どこかで見覚えがあったが、名前がわからない。しかし、彼はすぐに見つかった。引っ張り出したその雑誌は、「Myojo」2006年4月号。KAT-TUNとエイトの対談企画の時のものだった。その雑誌で彼は、

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※写真はイメージです。

 

カラフルなアフロをかぶっていた。

 

またもやクソダサい。

 

この子は大丈夫か?

 

こうして私は、自担・桐山照史と出会った。(雑)

 

でも安田担時代の私は、安田担であること以上に、eighterでいることが何故か誇らしく、そこに固執していた。だからこそ、このクソダサい(いいかげんしつこい) 今の自担に降りるまでかなり長い時間がかかった。安田担を辞めてしまえば、eigherを名乗ることが許されなくなる。それにJr.という不確実で不安定な立場が引っかかっていた。安定しきったカンパニー、関ジャニ∞とeighterの関係性が心地よかった自分にとって、Jr担になることはかなり勇気がいることだった。

そこでしばらくは副担制を設けることにした。完全に若さゆえ、である。安田担を続けながら、自担の現場にも足を運び、ファンサをもらっては優越感と背徳感に苛まれていた。

 

こうして中途半端なことを続けていた2012年、彼からかけがえのないプレゼントをもらった。名前だ。この、ムニという名前は何を隠そう自担から名付けられたものなのだ。この時私は、もう降りるしか選択肢がないと思った。これ以上安田担を名乗り、安田のうちわを持つ意味が自分の中に見いだせなくなっていた。そして、自担に対して「これが最後の担降りになる」という確信さえ抱いた私は、やっと桐山担を名乗るようになったのだった。

 

 

これが今日まで13年間の私のジャニヲタ人生です。長々と失礼いたしました(笑)

そしてこれから、宜しくお願い致します。

 

 

2017.1.28 ムニ